昭和41年11月13日 朝の御理解
小さな信心は行き詰る、大きな信心に息詰りはないと。大きな信心がさせて頂きたい。大きな広い、そして深い信心。大きいといい深いといえば、天地の親神様のお心ぐらい広い又深いものはなかろうと思う。その天地の親神様の広い深い心を分からせて頂こうと念願する。そういう信心を私は大きな信心だと思う。大きな信心をしなければいかん。小さな信心は行き詰る。よくこまいこまいとそんな小さい事にこだわるなと言った様な事を申しますけれども。
大きな信心を身に付けさせて貰い、大きな信心を分からせて頂く為には、その小さいいうなら針の糸でつついた様な事にでも、こだわらせてもらう信心でなからなければ、大きな信心は分からんと思う。意味が分かるでしょうか、私が言おうとしておる事が。大きな信心、大きな信心といゃ行き詰まりがないとこう仰る。小さい信心は行き詰る。行き詰ったんじゃつまらん、もうどこまで行っても限りがない。限りないおかげの頂ける信心ですから、矢張り限りがない。
大きいと言い深いといえば、天地の親神様の御心ほど深いものはない、広いものはない。ですからそういう信心を身に付けるために、一般ではそんな小さい言、そんなこまい事をあんまりこだわるなと良く申しますけども。その大きな信心が分からせて頂く為には、小さい事にでも、引っ掛かるこだわる、まあいうならばその目先目先のその小さい事にでも真剣に、言わば取り組むと言う事。
こだわると言う事は。そうしていく信心にならなければ、あんまり野放図な呑気なそういう信心になってはならない。大きな信心はそういう信心だと言う様に思うたら間違い。言うならば、清濁相飲むと言った様な事申しますけれども。そのお道で言う信心はそうではないと思うですね。清は清濁は濁である。二代金光様、四神様はその教えてありますね。大きな信心をせよと。
大海のような信心をせよ、竹の筒に水が湧いたような信心するから、ぼうふらぐらいなものしか湧かんと仰る。竹の筒にはぼうふらが湧く、大海には鯨が住もうがと仰っている。確かにそうだ、竹の筒に水が溜まったような信心では、せいぜいぼうふらくらいなものじゃ。大海には鯨が住む。大きなおかげを頂きたいと言うても、浅い信心では駄目浅い所には大きな魚は済む道理がない。
それで限りなく信心を深めていかねばならん。同時に豊かな大きな信心させて貰わなければいけん。大海の様な信心である。そこには確かに鯨の住む様なおかげが約束される。どうでしょう、その為に今日私は小さい事にでもこだわる、小さい事にでもまあ私がいつも良く言いますですね。例えばここでお取次させて頂くのに、ここにはこのお幣木が反対こうむいとっても私は絶対もうお取り次出来ません。気のめいる。それだから必ずこう持つ。正面にこうやる。これには一つ一つご神意があるからなんです。
ですから私は木の根をもう皆さんはこうやる、必ず気の目がこちらを向いとる、私がここに座っとる限り。勿論これが一分一厘でも違っておったら、私はもうお取次が出来ん前には進まれんのだ。言うならこれにこだわる訳なんです。ですからこれを正していかねば前の方には進まれない。昨夜のご祈念に久富繁雄さん達、兄弟が家族で参っておられた。勿論取り入れの真っ最中である。ようあなた方は取り入れの真っ最中に、本当によう信心が出来ますな。
昨日繁雄さんが仰っとった。昨日は親先生失敗致しました。まあ昨日はあの体も疲れとりますし。十時半頃帰らして頂いた。いつも私は11時に休む休むだけではない、ここを門限を11時にしとりますから、11時までは何かにと御用頂いて帰られる。もう必ずこれは降っても照っても、あのお茶道具の一遍通りお掃除をなさる。そしてまぁお茶でも入れてそしてまぁ言うなら、私をねぎらいて帰られるのがもう常である。
所が昨日のいわゆる、昨日の晩ですね夕べの前の日、先生今日はちょっと体が疲れておりますからご無礼してから、早う御座いますけれどもと言うて30分前に帰られた。所がです折角先生やっぱり、たった30分間ぐらいな事で、おかげを落としてはならんと言う事をお気付け頂きました。早速次々と自分の周辺に又は帰ってご神前にご祈念中に、その事を気付かせて頂いてからとこう言われる。
私はねそう言う事はどう言う事ではないと思うな。けれどもそれに引っ掛かって、前に進まれなさらんという繁雄さんのその信心が尊いと思う。私にしても30分間おって貰ったからといってどうて言う事はない。はあそうでもあろうお疲れでもあろう。どうぞ早くお帰り下さいとまぁ本当言うなら人間的には言いたい所。けれども矢張りおかげを受けてもらわねばならん。いや本当に信心によって徳を受けてもらわねばならん。
たったその30分間の事でです。そこからおかげが漏るような事があったりそれによって、御徳を向こうに押し返す様な事があってはならないと思うから。丁度昨日の晩にその繁雄さんが帰られた晩です。まだ5、6人残っておった。そしたら若先生が言いよります。もう本当にあげなお取次は、僕達には出来んもんと言うてから申します。まそげん言いよんなさるなら、お分かりになったかどうかは知らんけれどまた、その事を私は話した。そうじゃなぁ30分間、あの30分間が実を言うたら大事なとこなんだ。
いわゆる昨日から言っておるようにですね。そこんにきは合理的なものではないて、信心とは場合によっては、不合理なごとある。けれどもそれがまた不合理でもない。超合理的なんだ。そこに人の真似の出来ぬ信心であり、人の真似の出来ぬおかげが頂けるのだ。というふうにお話した事でした。まぁそれはそれとして、まあ昨日そんなお届けがあっとりました。今日はもう日が暮れてから二、三のの所とそれから、お父さんの所も自分の所も、もう日が暮れてから取り上げましたと。
おかげを頂いてから刈っとったのを、全部取ったとこういう意味でございましょう。後はまあだ青くしとるから刈られもせん。鎌が入れられない所がもう今にも降りそうな空模様である。もうかるく頂きましてから、もう取るものは取り。刈るものは刈り上げてしまってあるから降っても良いと、こう思う訳なんですよね。いうなら久富さん一家のために、お天気が動いてござるような感じがする。所がそういう場合どう言う事になるでしよう。もう一腰入れようと思うて刈ってしもとりましたらこのお湿り。
問題はそういう場合です。今日は勿論この辺とは天候が違いますでしょうけど。のでしょうけれど鹿児島の記念祭が、今日はある筈で御座います。若先生はそちらへ行っております。まぁですからあちらの御信者さん、教会長先生をはじめ、どうぞ今日は快晴な秋日和の中に、御大祭を仕えたいと言うのは、皆の願いであろう。所がほんならこの辺のように、お湿りがあっておるとするとです。これは今日は、もう本当に不祥なお天気だというような事になりかねない所なんです。
久富繁雄さん所の為には、まるっきり私の所の為にお天気が動いてござる。天地が動いて御座る様な気がするかと思うと、片一方御大祭でも仕えようかという家は、ああ陰気な事だとこういうのです。私は問題はそこんにきにあると思うです。大きな信心天地の事だから、降る事も有り難いのだ、照る事も有り難いのだ、いや稲を濡らすのも、また有り難いのだ。何故有り難いのですか。ただそこにも、ぼんやりとです、ただ、有り難いというておるような信心を、大きな信心と言うふに思うておったら間違いなんです。
昨日刈ったばっかりなのに、今日はお湿り。神様の働きに間違いがあろう筈がない。こちらの働きに間違いが、こちらの内容に間違いがある。そこに私は気付かせて頂いてです。いわゆるそう言う例えば天候の、降る照るの事に至るまでです。はぁどうぞ神様がなにか私共に分かれと言うて下さっておるんだと。所謂そこにこだわるのである引っ掛るのである。そしてこれを正しくカバーしていくのである。お詫びする所は詫びて行くのである、願わくば願っていくのである。そこに私は思うのですけれども。
例えば久富繁雄と言う人の為に、私1人の為に今日のお天気がこうであると言う事と同時にそうではない場合を、矢張り久富繁雄一人の為に降っておるのである、照っておるのであると分からせて貰う。久富繁雄というだけではないこれは私でも良い。大坪総一郎一人の為に、天地の全てのことが動いておられるのである。場合によっては、何と神様のご都合、お繰り合わせの素晴らしいことかと。
昨日刈り上げてしもうておったら、おかげを頂いてから、あとはまだ若いから刈られんと思うておる、そこのあいまあいまを縫うようにお湿りがあると、なんと神様の働きの有り難いことかというその有り難さは、まあ分かるとしてもです。刈ったばかりの所に、お湿りがあったと。それも矢張り成程大坪総一郎一人の為に、降るのであると言う事になってくる時です。さあ是は困ったお天気だとは言えんのである。
何故私一人の為に私一人の為に、私がいよいよの事が本当の事が分からせて頂く事の為に、私が歪んでおるなら、真っ直ぐさせて頂くことの為に、そのお湿りが、又は、風が嵐があっておるんだと言う事になると。夕べちょうどご祈念中に地震が御座いましたですね。ご祈念をさせて頂いて、こう礼拝させて頂いておりましても、身体が前後左右に揺れるくらいに。ここらあたりは電気が消えました。生神金光大神天地金乃神とこう、お縋りしている最中でした。
私はそん時に自分の心に、はっと思う様な事を頂いた。その揺れる最中にそして私は思う、この天地が動きござる。その天地の揺れ動くような、地震の様な事でも、大坪総一郎一人の為に、天地が割れる様な大変な事になっておるんだと。私のちょつとの不心得のために。もうはっとするほど、気付かせて頂いてその間、瞬間の間にお詫びさせて頂いたりまた治まっては、お礼を申上げさせて頂くような訳ですけどもです。降っても照っても、そういうような天変地変と言う様な事でも、私に関わりあいがあるのだ。はあ今日の地震な、えらい揺れたのと言うだけでは済まされないもの。
私は大きな信心とは、そう言う様な信心ではなかろうかと思う。一般では大きな信心とは、ああこまいこまいもうそげな事は言いなさんなと、と言う様な、大きな信心のように思うておる事。清濁相飲むと言った様な事を大きな信心のように言うけれども。そんなもんじゃない。そう言う所が分からして頂く、神様の思いの、そこの所を分からせて頂いて始めて、深い信心と言えるのじゃなかろうか。
四神様が、大海のような信心をせよと仰った。その大海のような信心とは、そういう信心ではなかろうか。些細な自分の心の動きにも、それを疎かにしない。自分の信心に起きてくる些細な事柄にでも、それをいい加減にしない。それを、お礼はお礼、お詫びはお詫び、改まりは改まりの師とさせてもらい、私は進めていくと言うことがです、段々大きな信心、豊かな信心、そして深い広い信心と言う事になるのだとこう思うのです。そういう深さが分かる。
天地の親神様の思いの深さが分からせて貰う。願わくば私は思う。それでも成る程天地は私の為に白由になっておって下さるんだなぁと。神様が今日はどこどこに、お話しに行けと。もう今にも降りそうなお天気である。神様、傘を持たせて頂きましょうかと、傘は要らんと仰る。もうままよと言うどん腹。途中でよし降ってもままよという気持ちである。おかげを頂いてから向こうに着くまで降らない。
ある時なんかは私がお話しに行って、帰らせて頂こうと思うたら、もうそれこそ今にも降りそうなお天気である。傘を持って行きなさい、傘を持って帰って下さいと言われたけれども、神様にお伺いさせて頂いたら、傘は要らんと仰る。傘を持たずにです、吉木に行っとった。もう勿体島の堤防あたりにきたら、もう直ぐそこまで降ってきよる。しかももうそれこそあの夕立ですから、痛いような雨がこう感じられるような雨が、もうほんな直ぐそこまで降ってきよる。
神様は傘は要らんと仰ったのだから、まあ濡れるなら濡れろ修行させて頂こう。もう私の、一間か二間後ろまで降ってくる。私がこちらへ歩いてくる、走る訳でもなんでもない。もう私が。ここへ着いたと同時にもうダーッという雨足である。お天気の日である。ただ今から、どこどこにと頂くから、どこどこにやらせて頂こうと思うて、庭に立たせて頂いた。今日は、傘とぼこりを履いてきた。傘を持っていく。今日の様なお天金お日に、途中からぼちぼちお湿りがありだした。
当時近所の人が言いよった。はあ今日は大坪さんなぶっくり履いていきよったけん、雨が降るじゃろち言うてから言いよんなさった。そんなに間違いがなかった。夏のどんなに炎天の中にでも、神様が暑い思いを修行でもさせようとしなさる時には、もうそれこそ木陰の中に入る事さえ許されなかったほどに厳しかったけれども。さあ今日はどこどこに行くと、こう頂かせて頂きます時にまいります、ちょうど、中島の上滝さん所に、お話に行く所であった。
これから鎮西橋を渡って、大木橋を渡って中島にこう行くと、北野ですから。もうそれこそ、もうやりやり照るようなお天気であった。けれども私はひとつも暑い思いをしなかった。私の上にいつも雲が動いておった。ずっともう私の周辺を雲の陰の中に、それこそ中島に行くまで、そういうおかげを頂いたこともあった。毎日が私一人の為に白由になって下さるんだなぁと言う事である。かと思うとです。
ただ今申しますように、わざわざ曇るどころか日陰に入っただけでも、楽をしたいという心は堕落する心ぞと言うて、お叱りを頂いておった時代もあった。一服するというても、大きな石の焼け付くような石の上に、まぁ掛けて一服せよと神様が仰る様な事があった。ですからそれもおかげなら、やはりこれも神意だということが分かるでしょう。そこに神様の思いの深さというものは分かるのです。
けれども、願わくば、私共の信心にです。まあ言うならば、自分としては、一分一厘間違いのない信心をさせて頂いてです。繁雄さんのそれじゃないですけど、今日はもうご無礼して三十分早く帰らせて貰う。たったそれだけの事が、狂いの元に成る様な事の無いようにです。自分でも気付かれたように、是からはああいう無調法な事はしてはならんと、昨日、お届けをしておられましたようにです。
そういう信心さして頂きながら、降るならば照るならば、それも又お陰として頂けるだろうけれど、そこの所を疎かにしておってです。降ってまぁそりゃ降るくさ、降る時は降るがと言う様な呑気な事言うておるような信心では駄目だと。神様はこうしてお気付け下さるんだ。こうして本当のこと分からして下さるんだと言う、私はおかげを頂かなければならないと思う。
そしてただ今も私が申しますように、願わくば私が例えば外出をする時に雨やら嵐が、例えば吹きよっても降りよっても、その間だけは風が止まったお湿りが上がったと言うくらいのおかげは頂きたいと、私は思うのでございます。天地が白由になると仰せられます神様ですもん。と言うてほんなら降ったからと言うて、照ったからと言うて、不祥と言う事ではない困ったと言う事ではない。
いわゆる私一人のために、雨が降っておるのであり、風が吹いておるのであると言うような頂き方をさせて頂いて。間違っておる所は、改まらせて頂いて進んでいくという信心が、私は大きな信心を頂いていく為の信心だという風に思うのです。どうぞ、大きな信心、小さい信心は行き詰まる。お願いしとったつに、お天気のよかごつお願いしておったら雨が降った。神様はいい加減なものだ。もうそこに行き詰っておる、小さな信心では行き詰まる、というて小さな事にでも、こだわらせてもらう。
こだわると言う事は小さな事にでも、自分の心の上に反省をさせて貰うとような信心であって始めて、その又雨が風が生きてくる。そして私の為の是であったと言う事になってくる。私一人の為の神様のお働きをです、感じよる時にその有り難さというものを、その相済まなさというものを、又は改まらせて頂くと言う事の意味においてもです。おかげを受けられるのです。
大きなおかげを頂く為に、大海のような信心とはそう言う様な信心。今日のいつもこういう御理解を頂きますけれども、ちょつと今までの御理解とは違っていた所が御座いましたですねぇ。大きな信心とはこう言う様な信心だとと言う様な事を、もう一辺自分の心の中に頂いて、愈々大きな信心に進ませてもらわなければならんと思うので御座います。
どうぞ。